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2010年6月27日 (日)

第9章 猫にとって、絵とは・・・? (2006.9.14記事)

第9章 猫にとって、絵とは・・・?

仕事とは、人間がしなくてはならないものから出来ていて、遊びとは、人間がしなくてもいいもんから出来ている。-と
ボクの好きなアメリカの文豪マーク・トウエインはいう。
絵を描くというのは、これは仕事であろうか。
人間がしなければ、自分が困るあるいは他人が困るという種類のものではなさそうだ。
だから、「気ままで羨ましい。」とか「自由でいいね。」とよく言われる。
まったくそのとおりであるのだが、壁にぶつかってあーでもない、こーでもないと悩むときがあるが、それは自己満足の観点からであり、アリが歩き出すとき、どの足を一番最初に動かすかというのに似ている。
どっちでもいいことだが、左の真中の足から動かすという説があるが、興味ある人は観察してみてください。
リバーデール アート協会主催のグループ展の搬入の日が近づいてきたので、2点絵を床に並べて決めかねている。
その絵をオゴゼが、正座して眺めている。
猫が絵の前に寝そべっていること自体はなんの変哲もない日常の風景であるが、「うーん、絵を鑑賞している。」という風情は、なかなか情緒的である。
猫の目は、よく見える。暗がりだって見える。審美眼だってあるだろう。
眉唾ものというが、手で顔をこすって確認し納得しているようで、嬉しい気持ちになってきた。
また、小学生の頃を思い出した。
ボクは小さいときから絵を描くのが好きで、母親が集めた広告の紙の裏に絵を描いた。
彼女に審美眼があったかどうかは知らないが、いつも(うまいね、上手かね。)と誉めてくれた。
しかし、今考えると、学業優秀な兄に比べると、図画工作以外取柄のない子供だったからかもしれない。
その学業だが、通知表は毎度散々なもので、5段階評価の1は電信柱、2はアヒル、3はダルマだったかな?-で、それらばっかしだった。
通信欄には、
(授業中、よそ見をしてることが多い。)とか、
(宿題を、忘れることが多い。)とか書かれていた。
勉強をしたという記憶がないので、(多い)という表現は心優しい先生の妥協の言葉ではなかろうか。
また、授業がはじまっても(国語の教科書を出しなさい。)と注意されるまで準備ができない。
ということを書かれたこともあった。
これに関しては、ボクにも言い分があって、小学校の担任が全教科教えていたから教壇に立ったときに、決めるものと思っていた。
だから、ボクはすべての教科書をカバンにつめて、6年間通ったのである。
ボクが時間割というものを知ったのは、中学生になったときである。黒板横に貼り付けられた1週間のスケジュールの読み方を知ったときのあの感動は、いまでもこんなすごい発明は類を見ないと思っています。
曜日と時限の組み合わせで、1年間のスケジュールが解るのだもの。それがわかっていたら、予習だって、宿題だってやった優秀な生徒になっていたかもしれないと思ったが、時間割に感動したものの、その後成績がのびなかったから、もともと暢気な人間だったのだろう。
まあ、今のボクは根気よく誉めてくれた母に感謝すべきなのだ。
               弟9章 1/2

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