第9章 猫にとって、絵とは、、、? 2/2 (2006.9.21記事)
家の裏に大工さんの作業場があり、雨の日などはカンナで削ったり鋸で木をきってたり、ノミと金槌で穴を開ける作業を飽かずにながめていた。
大人になったら、大工さんになろうと思った時期もあった。
とにかく、絵を描いたり何か作ったりすることが好きだった。
あるとき、「明日、図工の時間に、ビンを使いますのでもってきなさい。」と言われ、何に使うのかも解らず、一升瓶を持っていった。
ボクだけであった。
みんなは、牛乳ビンやらトマトケチャップのビンなどの小さいビンを持ってきていた。
これに新聞紙を貼り付けて、乾かしてから色を塗り飾り物を作るのである。
みんなが人形やロケットや灯台やら作る中、ボクには可愛いものがどう考えてもつくれそうになく、獰猛なイノシシを作った。
ボク自身の性格に、もっと優しさや愛嬌があれば見方もかわったのであろうが、生意気で悪戯ばかりやっていたので、特に女の子には人気がなかったから何かあるごとに、以来「イデの一升瓶。イノシシ、一升瓶。」と囃したてられた。
絵は好きであったが、県の展覧会に先生が応募してくれても、1度も賞とか佳作などもらったことがなかった。
しかし、漫画のキャラクターを描くのは得意で、一手に引く受けて、クラスの子らの下敷きに描いたものだ。
またあるとき、兄が「僕の弟」という作文を書いて、優秀賞をもらったことがある。
内容は全然おぼえていないのであるが、その中の1節が、
『人物画をうまく描いているのだが、片足がダイコン足で、、、云々。』
という表現で、兄貴の悪友たちから(ダイコン)という不名誉なあだ名をつけら
れてしまった。
ボクにとって、絵とは、、、?
絵そのものの評価より、関係ないところで茶化されたり面白がられたりした。
絵は遊びであり、好奇心だったのだろう。
その程度の才能であり、井の中の蛙であったから、美大を受けたが当然の如く合格しなかった。
誰かについて絵を学びたいという気もあまりなかったから、諦めもはやかった。
独学であったから、少し回り道をしたけどいつのまにか絵描きになった。
そいう経緯があり、いまだ応募展に出展しようとか賞をもらおうというダイソレタ考えをもたぬ。
マークトエインのいう遊びの部分から絵を描き、世界を放浪して気に入ったところを描いているのである。
オゴゼが、絵を眺めている。
母親のように、
「うまいね、上手かね。」
とでも思っているのであろうか。
気違いだったゴッホを、いまさら(炎の画家、天才画家)ともてはやす評論家よりおまえの感性視点価値観世界観哲学好奇心審美眼でみてくれたほうが、よっぽど、絵の評価ということでは真実に近いし、嬉しい。
『よし、今日は魚料理を作って、一緒に1杯やるか。』
あらためて、自分の絵をオゴゼの視線から見ようと腹ばいになってみると、額装のガラスは鏡になっていて、己のニヤケタ顔が映っていた。
なんとなく、芽生えてきた友情らしきものに、ビッビビーとひびがはいるような気分だ。
『何が、審美眼だ。テメーは、単なる駄猫か?』
怒ってもしかたがない。
『猫に、小判。』とは、この事かと諺の解釈が身にしみてわかった。
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